火曜日嫌い

やまもとのブログです。

小野島大のロック夜話 vol.24@円盤 ゲスト:百々和宏(MO’SOME TONEBENDER)

ライブ行ったり行かなかったり、Joy Heightsもまだ1度も見たことのない不埒なファンですが、ここぞとばかりに行ってきました
A6のノートにメモ書きしながら見ていたものを書き起こしました。
完全に自己満足です。 くそ長いです。


お客さんは40人ぐらい。店内に20席ほどの椅子が並べられ、後は立ち見。
開演時間を少し過ぎたぐらいに、お店の入口から小野島さんと共に百々が入ってくる。
「こんばんわー!」と言いながら。上機嫌だ。赤チェックのシャツにジーンズ、髭面。既に顔が真っ赤。
手には焼き鳥が入った包みを携えて。
「始まるまでちょっと一杯、と思ったら、出てくるのが遅かったから包んでもらった」と。完全に酔っ払いじゃないですか…


今回は過去最速で予約がいっぱいになった。これまでの記録はdipのヤマジ。
「タバコ吸っていいの?」と言う百々に、差し出されたのは「菊花賞」と書かれたガラスの灰皿。
柴山俊之さんと花田裕之さんのユニット。「大先輩に吸殻を押し付けるわけだけど…」
この2人は九州の大先輩だけど、同郷ミュージシャン同士の上下関係はどうなのか?
百々や勇の世代がギリギリそういう上下関係が厳しかった世代で、武井はそういうものはなかったみたい。
「勇が前やってたバンドのベースの人(…有江?)が、打ち上げでとある先輩にビール注ごうとしたら、
いきなりガーンと殴られて『ラベルが下じゃろうが!』って言われたって」

80年代と90年代にバンドを始めたのでは、人種が違う、と
若いうちからライブハウスに出入りしてたようなタイプじゃない人達がバンドを始めた時代だった。
グランジっていうジャンルが言われ始めた頃のこと


この辺で「ビール飲んでいいですか!」と高らかに声を上げ、ビールが運ばれてきて全員で乾杯。
小野島さん監修のNew Waveコンピに入れる曲を決める時に、Gang of fourの他にWIREの「Eardrum Buzz」も候補にあった。
レコーディングはしたけど発表されてなくて、一回だけミュージックスクエアで流したことがある


前日までJoy HeightsでMUD HONEYのツアーに同行していた。
NIRVANAと同時期ぐらいのリアルグランジと呼ばれたバンド。当時から全く上手くなってない。
メチャクチャではないけど、いぶし銀と言えるバンドになってた。ボーカルはイギーポップ化。
Joy Heightsのライブは楽しかった、どんどん良くなってた。
MUD HONEYとは音楽性が違うからどうかな、と思ったけど、やっぱりファンの間では評判が良くなかったみたいだって、
「大友さんがネットで見たって」「あの人そういう所あるんだよな」
メンバーにはウケが良くて、色々話した中で「The Pop Groupが好きだろう!」と言われたのが嬉しかった


モーサムは現在曲作り期間。
全員ワガママ度が増してる。今は個々に曲作りをしている。
今日出演するにあたり、曲選びなんかが全然終わらなくて、大友さんや達也さんに助けを求めたら
「そんなマジメなのじゃないから」と言われた
小野島さんも「過去の出演者でしっかりリストまで作って来たのは、勝井祐二だけですよ」
ipodを弄りながら、「ちゃんとファイル名も『ダイ オノジマ』にしてきたんよ」「『ダイ』はちゃんと『DIE』で」


生い立ちから話し始める。
実家は飲み屋、所謂カクウチで。小野島さん「じゃあそうなるわな」
常に酔っ払いが騒いでて煩くて、しょっちゅうケンカしてるし、母親はずっとお店でそのお客さんにお酒出してて、
学校から帰ると時々父親がお客さんを家に上げて飲み出したり、そういう環境で育った。
きょうだいは姉1人、妹が2人。
「そういう家庭に育つと…どうなの?」「どうなのって?こう(オカマっぽい)いうこと?笑」
そのおかげで優しく育ったかも、と。
小学校まではよく喋る子供で、授業中に騒いで通信簿に「百々くんが授業を妨害して困ります」とか書かれた
見かねた父親に剣道の道場に入れられた。


お姉ちゃんがワルくて、悪いことは大体先にやってたから酒飲んでも、タバコ吸っても親の反応は暖かかった…
などと、延々と幼少時のエピソードを話し続けて「…こんな感じでいいの?なんかムズムズしちゃうんですけど?」
小野島さんニヤニヤしながら「いやいや、いいのいいの」


そのお姉ちゃんの影響で、Michael JacksonMadonnaDuran Duranなんかの流行りの洋楽を聞き始めて、
'85のLIVE AIDも姉と一緒に見た。それが13歳ぐらい。でもその時の音楽で今に繋がるものはないって。
中学からはちょっとワルい友達に聞かされたLAメタルに目覚めた。MTV全盛の時代。W.A.S.P.、QUIET RIOTなど。
中学3年間メタル漬け。何か聞こうよ、と言うことになり、ipodクルクルしながら「何か聞きたいものある?」
お客さんから「Motley Crue聞きたい!」の声が上がるも、「入ってないって〜」と言いながら、
AC/DC?Ozzy?…TWISTED SISTER?」友達同士で部屋で音楽の話してるみたいなノリ。
Metallica聞こうか!」ということになって、「それではMetallica、『Master of Puppets』より『Battery』…」←デス声で曲紹介


●Battery/Metallica


イントロで「みんなでヘッドバンギングしてみようか!」
中2の百々少年が覚醒した曲。
家族で車で出掛ける時、百々少年がDJよろしくカーステで音楽をかけると、Metallicaをかけると父親が怒るけど、
POISONには好反応だった


SUMMER SONICMetallicaが出演した時に「Master of Puppets」を全曲演奏するって噂が流れて見に行ったけど、
30分ぐらい待っても始めないから諦めてFlaming Lips見に移動したら、その後始めたらしくて、それを物凄く後悔している…


小野島さんはMetallicaのドラムにインタビューをしたことがあって、
ドラムはバンドの頭脳と言われている人物で、持ち時間が通訳含め30分の中で、
ちゃんとプロとして自覚して仕事を受けてるのが分かったって。
百々「それはモーサムと一緒ですね☆」


初めてのCDは前述のW.A.S.P.。自分で買ったのではなく、そのLAメタルの洗礼を浴びせた友人から貰った
「これにはいい話があって。」当時レコードを家にあった家具調のオーディオで聞いていたことで、
その友人に散々バカにされていた。それでバイトしてお金を貯めてレコードプレーヤーを買ったことを
その友人に報告したら、誕生日プレゼントとしてW.A.S.P.のレコードをもらったと。
自分で買った最初のCDは、天神のタワレコで買ったVAN HALEN


その頃ギターを買うも「弾けるワケない!」
当時は早弾き至上主義で、早くも挫折感を味わう…
最初は鏡の前でストラト持って「ジャンプしてみようかな…」と思いながらポーズを取ったり。
バンドを組みたくてもドラマーが少なくてギターばっかり10人もいるようなことはいつの時代も同じで、
初めてのライブは地元のお祭りで演奏したLOUDNESSコピーバンドだった。
「この辺のことは開店休業中のコラムにも書いてあるんやけど…」


その後New York Dollsを聞いてパンクに目覚める。
そこから所謂BAD BOYS ROCKに傾倒した。
バンドでコピーする時、New York Dollsはカバーし易かった。GunsN'Rosesは難しい!
小野島さん曰く「コピーし易いのは大事なこと」で、BUCK-TICKの今井さんが初めてカバーした曲が意外にもスターリンなのも、
理由を聞いたら(マネしながら)「簡単だったから」と言っていたらしい。
その当時はライブハウス界隈ではハードコアパンクが全盛で、ゴリゴリの初期パンクをやるには覚悟が必要だった。
ライブを潰されたり!リアル爆裂都市!
仲間内でライブハウス借りてライブをやろうとするとその中に何組かパンクバンドがいて、そいつらが「今日チェーン持ってきたわ…」とか
言ってるのを聞いて、百々は「やめてくれと」


New York DollsからJohnny Thunders&The Heart Breakersなども聞くようになり、
その頃から「名盤100選」のような本を読んでTELEVISIONを聞いたり。
当時のバンドで「高校生ライブ選手権」みたいなコンテストにも出場した。
カセットテープがあったけど、テープを持っていた当時のドラムに連絡したら捨てられてしまっていた…
ここで1曲。


●Personality Crisis/New York Dolls


雑談的に、Malcolm McLarenがJohnny Thundersをロンドンに連れて来ようとしたけど言うこと聞かなくてバンドも解散してしまって、
New York Dollsみたいなバンドを作りたくてSEX PISTOLSを結成させたという話。「そう言われてますね」「…違うと?」
New York Dollsのベーシスト・アーサーを追ったドキュメンタリー映画「New York Doll」がめちゃくちゃ泣けると。
「茶番だと思って見たら全然違った、是非」と熱くなってた。


色々な音楽に触れることで、自分が何を聞いたらいいかが段々分かってきた百々少年。
そして高校へ進学した頃にバンドブームがやって来る。
それまで音楽を聞いていなかったような人達がバンドを始めるようになる。
サッカー部がボーカルになってみたり、みんながジュンスカやってたり
そういうのが嫌で、周りが知らないような曲をやってやろうとどんどんマニアックな方向に向かっていた。
福岡の音楽シーンはライブハウスで生まれたものが中心だったから、
ライブハウスのブッキングでライブをやるようになってからは、常に「一生音楽を続けていくにはどうしたらいいか?」と考えていた。
AerosmithなどのヒットによってGRAM ROCKが流行り出した頃で、ボーカルに彼女が出来たらその彼女のためにZIGGYのカバーをやったりもした。
オリジナルをやってみようということになったが「ボーカルにセンスがなくて」、「サビに『イカしたあの子』とかつけるなよ!」と思っていた
でもいざ自分で作ってみるとどうしても「サタデーナイト」とか「踊ろうぜ」とか出てきてしまう
その頃は日本のいなたいロックは聞いてもピンと来なくて、そういう音楽は年上の先輩が聞くものだと思っていた。
そのバンドは高校3年間続いて、「僕は世渡り上手だったので、勉強しないで大学に合格しまして」
大学へ進学したことで、音楽で結果を出すための猶予が出来たと考えた。


ボーカル転向の転機。
「百々少年は悩むわけですヨ、ギターのテクもないし、どうしようかと…」
地元をブイブイ言わせてた先輩のバンドに加入。それが'90ぐらい。イカ天が始まったのが'89ぐらいのこと。
イカ天に出てKINGにもなったSOLID BONDが地元にいたが、「…まぁ、そんな感じの結果で」
地元から羽ばたいて行った先輩のバンドが次々に玉砕して行き、「夢と現実は違うようだ」と思い始めた頃に出会ったバンドが、「ちゅうぶらんこ」


●パトリシア/ちゅうぶらんこ


唯一のアルバム「ハローフーラ」に収録。
「こいつらは世界を変えるわ、と思った」
バンド名を口にした時のお客さんの反応が思いのほか良く、驚いたように「何で知っとん!」
曲が終わって、「どうよ!」「このダルでルーズな感じが『めんたい』なんかな」
メジャー行きが決まってたけど、色々あってお流れになったらしい。


当時はロックの「ロ」の字も知らないようなお客さんとレコード会社ばかりだった
当時の話をJoy Heightsにいる「当事者」から聞くと面白い、と。「LA-PPISCHひでえなー!」
小野島さんが記事を書いたMUSIC MAGAZINE最新号のBJC特集で関係者にインタビューをした時も、
バンドとレコード会社の思惑については皆が口にしていたと。


まだ俗に言うインディーズブームが来る前で、「インディーズ」なんて言葉はなくただ「アマチュア」だった。
ライブハウスでも「今日は20人入ったぜ!」みたいな時代
この頃百々がメインで活動していたバンドが「SIVA」(シヴァ)
本気でやろうと決めていて、休学して東名阪ツアーをしたり、BSヤングバトルに出場したり。
結果は全国大会で準優勝。司会の赤坂康彦に「John Lennonっぽいね!」と言われたのを真に受けて「開けたな…」と舞いあがった
SIVAでは目の周り黒く塗ってたらしい。昔YouTubeに動画あったけど消えちゃってるなー。見たい。


まだロックバンドというものに対して業界が冷たい時代で、百々に一人でデビューする話も来たけど、全部断っていた
苦楽を共にしてきたバンドの仲間を裏切れないという気持ちもあった
Being系のユニットを組まされそうになったことがあって、NHKのディレクターからかかってきた電話を
「俺がそんなことやるような男と思っとんか、きさん!」と捨て台詞を吐いて叩き切ったw
「もしデビューしてたら、今頃武道館ぐらい埋めてたかもよ」www
九州の先輩バンドと交流が出来るのは、東京に出て来るようになってからが多かった
SIVAはよくLa.mamaに出演していて、音楽的にはGRAM色が強かった
イエモンが絶大な人気を誇っていて、福岡に来た時は見に行っていた
「こんなバンド売れるかい!と思ってたけど、それが間違いだった」「売れたねー」「売れたねー…」
「これ自慢なんですけど!」元NUMBER GIRL、現bloodthirsty butchers田渕ひさ子が毎回見に来てた、セーラー服で、バイクに乗って。
百々は「ひちゃこ」って呼んでて、小野島さんに「付き合ってた?」「付き合ってないっ!」
友達何人かといつも出待ちしてて、ある時その友達が「ひさ子バンド始めたんですよー」と聞かされ、
バンド名を聞いたら「NUMBER GIRL」と…「ギャルバンか?」

その後バンドは解散。
3年ぐらい続いたが、NYパンクはありだけどUKパンクはなしだったり、BOφOYやVELVET UNDER GROUNDの流れを汲んでいたからか
音楽のスタイルが古いと感じるようになっていた。
ずっと3つぐらい年上のメンバーとやっていたから、もっと弾けたい、ドガシャーンとしたのをやりたいと思うようになっていた。
自分でバンド組もう、と思ってモーサム結成へと動く…


と、ここで一旦休憩。
店内にトイレが1つしかないから、お客さんの間を通ってトイレへ向かう百々。
「飲み物のおかわりは大丈夫ですか?」とか声掛けながら。


Sonic Youthを聞いて、「これなら俺にも出来る!」と思い込んで曲作り開始。
小野島さん「それが行動原理だから、そういうのは大事だよ」
だんだん曲作りが楽しくなって来て、これなら1人で東京行ってもいいかなと思ったりもしたけど、
行かなかったのは単純に怖かったから。周りでいい話をひとつも聞かないし、
「東京に行くと、あんなに好きだったバンドがこんなに変わってしまうのか」とショックを受けたことから、
“東京に行ったらダメになる”という意識がすごく強かった。


SIVA解散からモーサム結成までの期間は半年ぐらい。
ソロでデモテープを録ろうとMTRを10万で買ったが、機械オンチにつきその日のうちに壊した。
アンプのスピーカーアウトをMTRのラインに突っ込んで、ガン!って一発弾いたらボン!と…
買ったベスト電器天神店に持ち込んで経緯を説明したら、店員に鼻で笑われたwが、ゴリ押しで無償修理させた
そのこともあって、「俺は宅録は向いてない、BECKにはなれんと悟って」「BECKになろうとしてたの!?」


その後勇や有江を含む仲間内5人で第1回のフジロックへ、福岡から機材車で行ったって。走行距離何キロだ
暴風雨だし泥だらけだったけど楽しい思い出しかなくて、
Rageのライブを見て「やっぱりバンドしかない」と思った


勇とは同い年で、同じように年上の人達とMOONBEAMをやっていて、
ずっと勇と一緒にやりたいと思ってたんだけど、MOONBEAMを抜けるとなった時に誘ったけど、
その時にはもう別のバンドを決めてしまっていた…それがモーサム結成1年前


フジロックから帰って来て、「俺とやった方がいい」って飲み屋で口説いた。
年上と組むことが多かったのは、やっぱり同年代だけだと視野が狭いし、色々と手っ取り早かったから。
ここで件のレイジを聞く。
大荒れの天気の中でイエモン待ちのギャルが柵にしがみついて離れなくて、大変なことになっている中で
「楽し〜い!!」ってヒューヒュー言ってたってw


●People of The Sun/Rage Against the Machine


曲を聴いている途中で、ドアががちゃ、と開いてのっそりと男の人が入って来た…と思って見たら、
それが中村達也だったwww
百々が一言ぽつりと「来るんだ…」
「勝井さんと5時まで飲んでたからさすがにぶっ倒れたわー」www
MUD HONEYのドラムと「どっちがタフか」って言い合って抱っこし合ってたってw
「だからケツ筋が痛いのか…」www
急遽Joy Heightsの未発表曲をかけてくれることに。


太陽がいっぱい(未発表)/Joy Heights


2007/7/20 新宿PIT INNでのライブ音源を大友さんがMIXして、
達也に突然渡されたというドラゴンボールのメモ帳に走り書きされたフレーズを元に百々が詞をつけたもの。
当時のレポを見ると「ナイジェリア」となってたものだと思う。
ナイナイ ナイナイ ナイチンゲール
「はい、ウルサイですねー」
「リリースしますか」「入れるの忘れちゃって」
アルバムのラストに入ってる曲は百々の作詞で、それを読んだ達也は「なんで俺の気持ちが分かるんだ!」といたく感動していた
「大友さんも呼ぶか!」


昔ロックショップにMotley Crue"Theater Of Pain"のジャケットがデザインされた缶ペンケースを買いに行った時、ヤンキーにチケット買えって脅されて…
結局その缶ペンは学校で没収された、規則が厳しい学校だったから
せめてもの反抗に、白い肩掛けのカバンのひもの裏に油性ペンで「Motley Crue」って書いてた、「まさに中2!」


元々百々と勇の2人で曲を作るっていうのは決めていて、最初のセッションで曲を持ち寄った時からジャンルが全く違っていた
百々はブルースっぽい歌もの、勇はレイジみたいなの
どんなバンドにしようかって話は当時も今までもしたことがない。
お互いにCDを貸し借りして、その中に接点はあった。


モーサムを始める前にソロで弾き語りをやっていたこともあって、
3人が初めて顔を揃えたのは武井がやってたバンドのイベントに、勇のバンドと百々のバンドが呼ばれたのが最初
その時にはバンドが解散していたので、百々は弾き語りでPJ Harveyのカバーを歌い、それを聞いた勇が「いいね」って言ってきた


「あんまりこれが良いっていうのは共通しないバンドだけど、このセンスは通じるものがあるな…」という曲
聞こえてきたのは「あのさぁ、YMOと書いて、何て読むか知ってる?」


●ストップ・ザ・ニューウェイヴ/スネークマンショー


お客さん大爆笑。「一回曲止めて状況を説明したいぐらい」達也「中2のノリだろ!」www
武井がスタジオに持ってきた。「モーサムがなんかかっこ悪いって言われるのは、DNAに確実にこのセンスが入ってるから」
「この曲に影響を受けて、モーサムが結成されました」達也「俺も入れてくれ」
唯一モーサムが口を揃えて「スゲェ!」と言った。
「これは初めて告りましたねー」


小野島さんはYMO「増殖」の「ロックには良いものもある、だけど悪いものもある」を聞いて身につまされる思いだった
唐突に「小野島さん今日なんかさっぱりしてるね」「…女の人が多いと聞いたので気を使って…
この間あなたにステージ上から『デブ』って罵倒されたので。その後に歌詞間違えてるし、罵倒するぐらいなら歌詞を間違えるなよ!」


個性が違う作曲者がいて、曲作りの際にどこに落とし所を持ってくるのか?と。
今は1つの船に船頭が3人いるようなもので、あちこちで蛇行している状態。
結成当初は何がやりたいのかはっきりしていなかったけど、今は自分のやりたいこと、出したい音がはっきりしているから
どんどんエゴが出てきて、触れ幅が大きくなっていってしまっている。
やれることに限りがあるからこそ、バンドがまとまることができるのであって、とも言っていた。
結成した頃はこんなに続くとは思っていなかったし、10年後こんな音楽をやっているとは想像もしていなかった。
「一番かっこいい時にドガシャーンとしたのを一枚作ったら、それでバンドがポシャってもいいと思ってた」


結成からインディーズでCDを出すまでは早かった。その頃はアルバイトをして生活していた。
ダスキンレントオールのアルバイトリーダーだったwwwシフト組んだり…
そこの店長が昔大阪でメタルやってたからバンド活動に寛容で、他にもバンドマンが多く働いてた
ある時、懇意にしていた地元のイベンターからズボンズの福岡公演での前座の話が舞い込み、ライブのウケも上々だった。
当時運転手として一緒に周っていた現マネージャー氏の目に止まり、
「一緒に30万貯めて7inch出さないか」と口説かれたことが、PARCOレーベルへの所属と東京へ出てくるきっかけになった。
それまでのメジャーへの不信感から、「業界の人なんて売上のことしか考えてないんだろう」ぐらいに思っていた百々にとって、
マネ氏の言葉が新鮮で、面白かった。

「Drive」「DAWN ROCK」の頃には月の半分はツアーに出ていて、生活を考えずにひたすらライブをこなしていた
2000年に上京。
「3人で思ってる所は違うと思うけど」と前置きして、百々が思うに、この頃バンドの音が固まり、
「対バンの客を引っ張って来れる」という手応えも感じていた。
百々にとって「Drive」が初めて出したCD。
出した時は反響は気にしていなかったけど、「出しただけで天下取ったような気持ちになった」
ツアーに行く度に仲間が増えて、ライブやって打ち上げやって、という日々が楽しかった。
当時意識していた日本のバンドは特になく、その頃に昔はピンと来なかった80年代前後のアンダーグラウンドにハマる。
ここで1曲。


●BIG-S/FRICTION


「CRAZY DREAM/KAGAYAKI/BIG-S」に収録されているオリジナル・バージョン。
聞き終わって「…がぁ゛っ゛ごい゛い゛!!!!!」心の底からの声みたいに。
小野島さん「この時代のバンドにしてこのグルーヴは、やっぱり凄い」
当時PARCOの社長と話していた時に東京ロッカーズのビデオを見せられて、S-KEN、Mr.Kite、RIZARD…がいる中で、
FRICTIONはビートが違っていた。「洋楽と邦楽の壁をぶち破った」
達也を指して「あ、FRICTIONの人だ」
達也は「メンバーじゃなくて、演奏者、ファンの代表みたいなもん」
ある時チコヒゲさんに突然呼ばれて、UFO CLUBで完全シークレットでライブをやったらしい。達也「俺見に行ったよ」


百々と武井は昔からFRICTIONが好きで、武井は物心ついた時には兄貴の部屋に「軋轢」のアナログが壁に飾ってあったような環境で、
スタジオで2人で「BIG-S」を合わせてたら、元曲を知らない勇がそれに四つ打ちで合わせて来て「お前の解釈すげえな!」と感嘆した
バーしていることを聞きつけたRECKから突然電話がかかってきて、スタジオに遊びに来たこともあったとか


「FRICTIONの人」である達也は、RECKとスタジオに入ることを「RECK塾に行ってきます」と言う
スタジオに3時間入ったとしたら、その後に喫茶店で3時間のお喋りタイムがある、RECK下戸だからコーヒー1杯で
イメージとは全く違う、話好きの人懐こい人らしい。
小野島さんは過去に夕方5時からインタビュー始めて、終わったのが翌朝だったこともあるとか


そうこうしてメジャーデビュー当時の話へ。
デビューが決まった時は「これで世界が変わる、日本の夜明けだ!」と殴り込みをかけたつもりだった、が、
「そんなもんなんだ」「世間のロック好きはみんなIggy Popが好きだと思っていた」
「Hello」と「LIGHT,SLIDE,DUMMY」の頃は、どこまでエグく出来るかを突き詰めていた


1stはとにかく会社の言うことを聞かないでやりたいことをやった
結果は「出なかったですねえ…」と、傍らにいた当時の宣伝さんに話を振る
メジャーに行ってポップになったと思われるのが嫌だった。そうなってしまった先輩バンドを反面教師に。
レコーディングでは「ボーカル下げて、ギターの音量上げて、ドラムの音歪ませてください」ばっかり言ってた。
その当時を象徴するような曲を、ということで選んだのがこの曲。


●ジョニー・ボーイの話/MO'SOME TONEBENDER


ipodで音楽聞いてて、たまにシャッフルでモーサムの昔の曲が流れてくるとびっくりする、『音汚っ!』て」
小野島さんも「当時はそんなに汚いとは思わなかったけど、今聞くとスゴいね」
今になって初めて仕事する若いエンジニアさんに、「1stの音に影響受けました」とか言われると嬉しい


2001年に初めてのFUJI ROCKに出演。RED MARQUEEにて。
この時のアクトを見て、小野島さんは衝撃を受けた。
「テンパってて何も覚えてない、完成度は低いけど、テンションだけは高かったと思う」


デビュー前後、業界的にはミッシェルとブランキーの後釜としての期待値も高かったけど、
それについては「目の上にタンコブいるなー」ぐらいにしか捉えていなかった
ミッシェルがユニバーサルに移籍してくることになった時、レコ社の人も交えての飲み会でキュウと対面して、
「どうも、ミッシェルガンエレファントのキュウです」「存じております」「レーベルでは後輩になりますので…」「いやいや」
モーサムを担当してたディレクターがミッシェルも担当することになって、
「俺はモーサムとミッシェルで日本のロックを変えてやる!」と息巻いていたら、その後すぐにモーサムは契約を切られたw
小野島さん「あのタイミングで切るなんで、ユニバーサルは何を考えて…」「聞いてみます?」宣伝さん「いやいや、ここではちょっと…」
その後TRIADに移籍した時にはミッシェルを担当していたスタッフさんがたくさんいて、
業界は狭いなー、という話が元ミッシェル達とのすべらない話になっている


レーベルも決まってなくて〆切もない、それでも作りたくて仕方なくて作ったのが「Trigger Happy」
「転機、になるのかな」
それまで昔の曲ばかり聞いていたのが、リバイバルブームでPOST PUNKやNEW WAVEを聞くようになり、
現在の音への接点が生まれ、!!!と対談したり、曲の作り方も変わって来た。
NEW WAVEトリビュートに収録されている「to hell with poverty!」で勇が同期を使うようになり、
百々も始めは「ドラマーがドラム叩かんってどういうこと?」とか「ライブでどうやるのか」とか思った
ライブでの初披露は2005年の朝霧JAM。「リアルフジロックね」「そうなの!?」「見てないと?」
しかも1曲目。真昼間。どうなるかと思ったけど、どんどんお客さんが増えて盛り上がった
後ろの方でポイ(「ヒュンヒュンするやつ」)を回してた男子、曲が始まった途端に回すスピードが速くなって、
「俺は今こいつに影響を与えている…」と思った百々
普段と違う客層にウケたことで自信にも繋がった。


「最近は何でもあり?」との問い。
それまであった「ロックかくあるもの」「世捨て人であるべし」みたいな自分の中での制約がなくなってきた。
「それまで NO であったものが YES になる快感!」
モーサムはこれという必殺技を持たずに技だけたくさん覚えて、全てが必殺技になったようなもの
これがモーサムだっていう黄金律がないまま来てしまった
例えばMUDHONEYはSUBPOPの看板を背負って、昔の曲をやれば盛り上がるけど、モーサムはそういう存在にはなりようがなくなってしまった
小野島さん「お客さんも心の準備は常に出来ていると思うよ、ベーシストがベース置いても…」
武井は夏になると何をしたらいいか胃潰瘍になりそうなぐらい考えているらしい。


「We are Lucky Friends」は元々バンドサウンドでレコーディングまで終えていたものを、
百々がぽつりと「The Strokesっぽいね」と言ったことで勇に火をつけたのか、独断で丸ごと打ち込み曲に変えてきた。
「やる方もやる方だけど、それを許す方も許す方だよ」
そのことの後に作ったのが「C.O.W.」
ここで1曲。
デモを録っても曲名の書いてない白CD-Rはどんどん捨ててしまう、辛うじて残っていた曲だそうで。有難い。


●アントニオバカ貝(未発表)/MO'SOME TONEBENDER


少年ナイフ・トリビュート フォーク&スプーン」への収録曲決めの際に選考から漏れた1曲。
バスドラが頑張ってる、DMBQっぽい、元は超プリミティヴな曲をゴリゴリのKing Crimson風アレンジに仕上げた
「…DMBQっぽいね」
THE ROOSTERSのカバーアルバムで「新型セドリック」をカバーした後に、プロモーションでHMVに行った時に
店長さんから「大江さんが『モーサムが良かった』と言ってた」のを聞いて、とても嬉しかったそうだ。
達也「俺、高校の時にTHE ROOSTERSの前座やったことあるよ」達也さん生ける伝説過ぎます…!
百々がお客さんに「腹減ったかー?」とか聞いて、焼き鳥(冷めてる)あげようとして達也に阻まれる。「食べるよ!」


今年はワガママ具合にますます拍車をかけて行きたい、と締めの言葉。
「次どこから出すの?」「そんなリアルな話?」…コロムビアと契約切れたのか…
「Trigger Happy再びかな」だって。それはそれで面白そうだけど。


最後はジャンケン大会。 商品は・・・


・DUM DUM PARTY/モダンラヴァーズ・ボレロ(LIVE)のアナログ
モーサムが唯一出したアナログ。これが売れなくてねえ…」


TOWER RECORDS 3000枚限定「GREEN & GOLD」
カップリングの『OUTDOOR』はこれにしか入ってないんですけどよくライブでやってて、評判のいい曲です
モーサムトーンベンダーカップリングにも手を抜きません」


「これ聞ける人いるのかな?」と最後に取り出したのはカセットテープ。
・廃盤『1ST DEMO TAPE』
「最初に作ったやつは武井の顔がアップになってて、それが評判悪かったんで俺らの思うかっこいい感じにした」
という緑地にバーコードがプリントされたラベル。
「ビートルバーナーとか未来は今とか、太陽に捧ぐ詩とか…『太陽に捧ぐ詩』ってどんな曲だ…?」
百々もこれ1本しか持っていないという、めちゃくちゃレアな一品。


外れた人にも全員にステッカーを配ってくれて、握手やサインにも応じてくれて、
間近で見るとイケメソ過ぎて直視できなかったことはさておき、
8年ぐらいモーサム見てきて一番身近に感じた3時間半だった
途中途中で「たっつぁん、ビール平気?」とか気遣ってて、本当に気持ちのいい青年なんだなあと思いました
帰り際、出入り口のところに達也が普通に立ってるから、前を通るのが躊躇われたwww





何この触れ幅。